写真は京都市南区に残る、平安京正面として羅城門(朱雀大路への入り口)が建てられていたところです。礎石等の痕跡もなく、明治28年建立の標石が残っています。 延暦13年(794)10月28日、桓武天皇が遷都の詔を発布し、平安京が誕生しました。その後、源平の争乱、応仁の乱、豊臣秀吉による都市改造、幕末の混乱期など、都市としての様相を変える事件が多々あった中で、明治天皇の東京行幸(1869年)まで、の1000余年の間、京都は日本の首都であり続けました。 南北5.3キロメートル、東西4.6キロメートルからなる平安京は、厳密な左右対称の都市プランを持つ理想的な都市計画がなされていて、その様子は京都タワーの展望台から見ることもできます。(今回の旅では見れませんでした。) 京の中は大路と小路によって整然と区画され、町(一辺が40丈、約120メートル)という単位で成り立っていたそうです。その中央には幅80メートルの朱雀大路が走り、それを挟んで東側を左京、西側を右京と呼ばれました。左右の両京には、東寺・西寺(現在では跡のみ)、東市・西市、迎賓館にあたる東西の鴻臚館などの諸施設が配置されていたそうです。 そして東京遷都の後もしっかりとした都市計画の元、日本の都が作られてきました。しかし、経済が潤うとどこかでアンバランスを生じさせる出来事が起こるのでしょうか。私は誰かが100%満足する世界があるとすると、相反する100%不満な者が存在すると考えます。現在の東京は、文化の伝承の大切さ無視して、経済効率(誰のため?)を優先した結果、白亜の建物に無計画に絡まる蔦のような高速道路が大気汚染の元凶ともなり、風水の考えを用いた皇居を中心とした都もその形が崩れ、生活をする人こそいれども美しいとは言えません。今年の元旦にこの場所に立った時、無意識のうちに頭を駆け巡ったことは、先人達が訴えてきたのでしょうか。隣の東寺が様々な国の人を含めて賑わっている中で、この羅城門にいたのはゆきたんく1人でありました。 |
正月 弐月 参月 |