散策

 18号棟はトイレだった。
とても綺麗なトレイで良かった。
 糸杉かと思ったら、セイヨウハコヤナギの木。まっすぐに空に伸びてよろしい。
 奥に見えるのが、「アウシュヴィッツ ビルケナウ強制収容所パミエンチ財団」の建物だ。
 16号棟と17号棟の間をゆっくりと歩く。
良く見ると数字に小さなaが付いている。
 国語に写真で気が付いたので、この時に、他のと見比べることをしなかった。
 「アウシュヴィッツ ビルケナウ強制収容所パミエンチ財団」の建物。
 最初に見た時に監視所と思った建物だ。
 当たりですな。
 「SS隊員が点呼を実施し、悪天候時に避難所に避難した兵士の数に関する報告書を収集する責任を負っていたブース。
 絞首台。
 説明版だ。
 「1943年7月19日、アシュルツで行われた最大規模の公開処刑でポーランド人囚人が絞首刑に処せられた。
 直訳です。
 「ここで、点呼を指揮する親衛隊将校は、そこにいた囚人の数に関する報告を受けました。もし行方不明者が見つかった場合、残りの囚人は天候に関わらず、長時間不動の姿勢で立たされるという罰を受けました。 ここで、親衛隊は囚人を威嚇するため、公開処刑を行いました。このような最大の処刑は1943年7月19日に行われました。親衛隊隊員は特別に建設された絞首台で、他の3人の捕虜の逃亡を組織したり、地元住民との接触を維持したりした疑いで12人のポーランド人を絞首刑にしました。戦後、博物館は絞首台を再建しました。
 ガス室の方へ向かう。
 直訳です。 「1941年10月7日から1942年3月中旬まで、ソ連軍捕虜収容所は、柵で囲まれた別々のブロックに設けられていました。 約1万人の捕虜がそこで登録されていました。彼らは飢餓、重労働、そしてSSによる特に残酷な扱いの結果、大量に死亡しました。また、ゲシュタポ特別委員会の命令により、チクロンBで殺害されたり、銃殺されたりもしました。
 上の続きです。
 労働を拒否した者は、凍えるような寒さの中、ブロックの外に裸で連れ出され、水をかけられたため、多くの人が凍死しました。 そのうち9,000人以上が5ヶ月以内に死亡しました。
 生存者は1942年3月、建設中だったアウシュヴィッツ第2ビルケナウ収容所に移送されました。
1941年10月7日から1942年3月中旬まで、ソ連軍捕虜収容所は、隔離され柵で囲まれたブロック(1~3、12~14、22~24)に設けられていました。 約1万人の捕虜がここに登録されました。彼らは飢餓、重労働、そして特にSS警備員による残酷な扱いにより、多数が死亡しました。 彼らはまた、チクロンBによる殺害や、ゲシュタポ特別委員会の命令による銃殺刑にも処されました。労働を拒否した捕虜は、極寒の寒さの中で裸で屋外に連れ出され、水をかけられ、多くが凍死しました。 5ヶ月の間に9,000人以上が死亡しました。生き残った捕虜は、1942年3月にまだ建設中だったアウシュヴィッツ第2ビルケナウに移送されました。
 区画を分ける有刺鉄線が張られている。
 厳格なまでに分けられている。
碍子がこちらを見ている目のように感じる。
 すぐ外に自由があるのに・・・

 これは東日本大震災の後に放射能があるので入らないようにと柵を設けられたことを思い出す。

   
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