師走

写真は千葉県四街道市にある松の木。太平洋戦争当時、戦闘機の燃料になる松ヤニを採ったV字型の傷が残っている。
                                                
 師走。よく学校の先生は廊下を走らないのに、走るほど忙しくなることから「師走」というのだと聞く。師走の「師」を先生と理解した場合である。坊主が走らなくてはならないほど忙しくなることから来ているということを聞いたこともある。坊主が忙しくなるって…  人が亡くなる時だよね。なんて知ったかぶりして恥をかくのも癪なので調べてみた。

師走は当て字で、語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳である。
師走の主な語源説として、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す(しはす)」がある。
この説は、平安末期の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に、「しはす」の注として説明されている。
現代の「師走」と漢字の意味も近く、古い説であるため有力に思えるが、「師馳す」説は民間語源で、この説を元に「師走」の字が当てられたと考えられる。
その他、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとする説。
「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説。
「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがある。


この「師匠の僧がお経をあげるために、東西を…」という部分が葬式を想像させるが、これは別に師でなくても良い。ということは、寒いので人が亡くなりやすいということではないととらえられる。しかし、昔は暖房設備がしっかりとしていなかったからと様々なことが考えられる。

一番正しいのは、次のことのようだ。
昔は家々にお坊さん様を呼んでお経をあげてもらう習慣があったことから「師走」という言葉が生まれたという。ゆきたんくの周囲では見ることのなくなった年中行事の一つだと思う。

 昔当たり前のようにあったこの習慣が、昔と同じ位の必要性を持たれているかといえばそうではないだろう。一つに日本人の無宗教製というものが挙げられる。信ずる宗教のある方々には失礼に当たるかもしれないがこの先を述べることをお許しいただきたい。日本古来から神道(しんとう)とがあり、様々な祭事の際にお目にかかっている。結婚式で神主さんに榊を振っていただりたいり、お宮参りでお世話になったりしたことの有る方はたくさんいらっしゃるだろう。でありながら、結婚式がキリスト教で葬式が仏教というのを見たことはないだろうか。これを読んでおられる方の中には教会で結婚式をあげた方々もいらっしゃるだろう。ご自分が亡くなった時の葬式もキリスト教式だろうか。このようなことが普通に行われる国は世界を見渡すとないことだと思う。(自分が日本人ゆえに燈台元暗しなのだろう。)宗教の違いが国によっては命のやりとりになることもあらためて勉強しないとピンとこないであろう。最も戦後の日本の教育に歴史が教科として初等教育から入っていなことも一因だろう。歴史というのは60年以内の近代史では語れないし、また60年以内の歴史というのは善悪の評価も今後の考え方によってはころころと変わっていく可能性もある。やはり100年以上の時間を経た過去であれば今後評価が変わることは稀であろうから、歴史として正しい知識に成りえると思うのだ。先に挙げた宗教というのは1000年以上の歴史があり、新興宗教にしてもそれらの宗教が基盤になったものが多い。

師走を迎えて、化石燃料(原油)の価格高騰から様々な物品の値がつりあがっている。毎日のニュースでも深刻な内容のものが流されている。しかし、そんなものどこ吹く風で過ごしている人たちもいる。一つは経済的に困らない立場にいる人たちである。明日の食事を気にすることもなく、ゆったりと構えていられる人たちである。もう一つは過去の歴史を大切にし、食べられない時に様々な工夫をして生き延びてきた人たちである。ゆきたんくはそのどちらにも属さないが理解はしようと努力しているつもりだ。

太平洋戦争時、日本は物資に窮した。そして、一番潤っていたはずの軍隊もだんだん窮していった。飛行機の燃料にも事欠くようになってきたのである。どうしたか?松の木にV字型の切込みを入れ、そこから採れる松ヤニを燃料にしたのである。そうまでして戦争に勝とうとしたことを言っているのではない。人間は命がけの時には、必死で方法を考え出すことができることを言っているのである。
 過去の歴史の中には振り返りたくないものもあるだろう。あえてそれを形に遺したのが宗教の経典といわれるものである。もちろんイエズス・キリストが存在したころにはいつでも使えた紙(パピルスは紀元前2000年位からあった。)などないのだから、何百年も語り継がれて数百年後の弟子達が本にまとめたのだと思う。ある意味生きる知恵の書だとも言えるのである。また聖書ができたころとは、時代が違うのだから、書いてある文のまま受け取ることも愚かである。文意を汲み取らなくてはいけない。

 「師走」。昔当たり前だったことがだんだん失われてきている。生活の質は上がり、生きていくことに困ることがないような世の中になってきた。逆に言えばそれは、イレギュラーバウンドが発生した時に、対処する術を身につける機会を失ってきたことになると思う。一概には言えないが、教育問題でも昔は当たり前にあったものが、深刻化してきているのは問題そのものが悪質になってきたのではなく、対処する能力が低下したことになるのではないだろうか。現代人が古に学び、諸問題を解決するヒントを見つける努力をする時がきたのではないだろうか。
屠位置月      師走         謹賀新年