弥生  
 行く1月,逃げる2月,そしてついに去る3月になりました。
 前月末に医者に行きました。
 足の具合は少し悪い方に行っていましたが,ケア次第で良くなるとのこと。
 これから暖かくなりますので,筋肉トレーニングを主としたリハビリを続けていきます。
 そんな中,研修で遠出する時の運転手をしてくれる友人に感謝です。
 ずうっと前からの懸案であった館山方面の研修に出かけました。
 その行程の中での掘り出し物もありました。
館山に砂丘があると思いませんでした。 → Map
2月 3月 4月
 今の仕事についたのが30年前のこと。
 最初の年に宿泊研修があり,泊まったのが大房岬自然の家でした。
 夜中にウシガエルが何匹も鳴いていたことを思い出します。
そのウシガエルの正体は,夜に飲みすぎで酔っぱらった仲間でありました。
よく指導者たちが怒りに来なかったと思います。その研修所のあった大房岬が,要塞跡だっと知ったのは随分と後のことです。戦争遺跡マニアならば,誰もが知っているという超大物遺跡でした。
 ゆきたんくが戦争遺跡マニアになったのは,それから15年後のことでありました。地元松戸市の陸軍境界標柱に始まり,千葉県北西部をしらみつぶしに探して歩いたこともありました。
 そして大房岬が戦争遺跡と知るのはその5年後になります。
10年間の間,いつ行けるだろうかともんもんとして過ごしていたのであります。今回,館山に行くにあたって,コースに入れたのは当然のことでありました。
 さて砲台跡です。すっかり花壇のようになってはいるけれど,側面のタイルが剥がれ落ちたところには,当時の砲台を固めていたコンクリートが顔を出していました。ワシントン軍縮会議の結果,不要となった艦砲の砲塔がここに設置されたのですが,実戦には参加せずに終戦を向かえたとのことです。
 そのすぐ近くには,弾薬庫の外壁がしっかりと見えていました。
幕末のころから,要塞はありました。
 その岬が明治20年代の日清・日露戦争そのご様々な変遷を経て,日本海軍の艦砲射撃の演習場として選ばれたのが,ここ大房岬だったのです。
 要塞化する工事が始まったのは昭和3年(1927年)で,その時に照明所と発電所が建設されました。
第1照明所用のサーチライト(現在はない)を格納していた。
第2照明所 昇降機で探照灯を地上に挙げていた場所。
第2照明所サーチライト用のディーゼル発電機が設置されていた。