| おしゃれな年表が向かえてくれた。 |
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建物の中に入って気付いたが、基本煉瓦造りである。 |
| バロック様式の優雅な「オストログスキ城」を利用しているのだそうだ。 |
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このアーチ、そして床には石畳。
歴史を感じる。
17世紀に建てられたのだそうだ。 |
| これは、鳥か? |
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ショパンが使用していたピアノの一つ。 |
| どうしてもチョピンと読んでしまう。 |
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館内の一部。
とてもお洒落な造りだなぁ。
他に表現方法を思いつかない・・・ |
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| 直筆の譜面、愛用品、手紙、肖像画、個人的に愛用品が゜7000点以上も収蔵されている。 |
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19世紀のカリグラフィーでフランス語で書かれている。 |
| キリン・ピアノと呼びれる非常に珍しいアップライトピアノ。19世紀初頭に作られたものだ。 |
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アンティークな時計。 |
コンサートちらしかな。
「国立劇場にて、1830年3月17日
フレデリック・ショパンが器楽と声楽のコンサートを開催する栄誉に浴します。開演11時」とある。 |
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直筆の楽譜たち。 |
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直訳です。
「フレデリック・ショパン
ピアノとオーケストラのための変ロ長調 Op. 2、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』(1827年)より「Là
ci darem la mano」について」 |
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自筆楽譜原本。
そう、世界に一つなのだ。 |
直訳です。
「フレデリック・ショパン
前奏曲 ニ短調 作品28 第24番(全曲は1839年に完成)
全曲を網羅した自筆譜『Stichvorlage』の一部」 |
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記念品や遺品。
中央にはショパンの胸像と思われるブロンズがある。 |
| ショパンが晩年に愛用していた、フランスのピアノ製造会社プレイエル(Pleyel)社製ピアノ。 |
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もう少しはっきりと写しておけば良かった。
グーグルレンズで解読不可能だった。 |
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直訳です。
「ショパンは1831年にフランスに到着し、永住しました。当時ピアノポリスとして知られていたパリは、音楽家としてのキャリアを追求するのに理想的な場所でした。ショパンの日常は、ピアノのレッスン、作曲、出版社とのやり取り、人々への訪問、サロンでの演奏などでした。彼は頻繁に住居を転々としていたため、彼の私物は現存していません。残っていたものも、特に戦争の混乱の中で散逸したり、破壊されたりしました。ショパン博物館には、世界最大規模の「ショピニアナ」と呼ばれる、ショパンにまつわる貴重な記念品のコレクションが収蔵されています。」 |
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アンティークのレザー製ハットボックス(帽子箱)。 |
| 展示ケースに記載されている「Nohant」という文字は、フランスの作家ジョルジュ・サンドが愛したノアンの家に関連している。 |
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フランス語で書かれた本。 |
| フレデリック・ショパン(右)と作家ジョルジュ・サンド(左)の二連肖像画だ。 |
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直訳です。
「ショパンは、ヴィルトゥオーゾによくあるような旅行には出かけませんでした。むしろ観光旅行や健康上の理由で旅をし、コンサートもその合間に行っていました。彼は馬車、駅馬車、列車、船、フェリーなど、あらゆる交通手段を利用しました。ショパンの時代における最も重要な技術革新の一つは、鉄道輸送の発達でした。」 |
| 「1843年、パリとオルレアンを結ぶ路線が開通し、作曲家はジョルジュ・サンドの夏の離宮であるノアンへの移動がはるかに容易になりました。そこで過ごした休暇中に、ショパンは多くの傑作を作曲しました。ノアンは、ドラクロワ、グリマワ、リスト、ヴィアルドなど、ジョルジュ・サンドの多くの友人たちを訪ねました。彼はヨーロッパを離れることはありませんでしたが、ジョルジュ・サンドとその子供たちと共にマヨルカ島へ行った遠征は、そこで得た印象と経験において特別な旅となりました。そこで彼は初めて異国情緒あふれる風景と自然に出会いました。彼はまた、ベルリン、ウィーン、ドレスデン、ロンドン、プラハ、ミュンヘンといった多くの大都市を訪れました。イングランドとスコットランドへの最後の旅は、彼の健康状態を深刻に悪化させるきっかけとなりました。」 |
| また、ピアノに見入る。 |
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これも、プレイエル(Pleyel)社製ピアノ。
ショパンはこの会社のピアノを10台所持していたという。 |
直訳です。
「ショパンは常に友人や知人に囲まれており、困難な時期には親切で協力的な人々でした。彼の交友関係には、ポーランドからの移民、音楽家、芸術家、作家、貴族、裕福な町民などが含まれていました。」 |
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「ショパンは多くの弟子たちと温かい友情を築きました。安定した親密な関係を築くのに苦労しましたが(中でもジョルジュ・サンドとの関係は最も長く続きました)、それでも彼は常に周囲の支えに恵まれていました。しかし、周囲に囲まれていながらも、ワルシャワの家族から遠く離れていたため、時折孤独感に襲われることもありました。特に書簡や回想録に残された彼の人間関係を通して、私たちはこの作曲家の複雑な性格を垣間見ることができます。」 |