門へ

 このチムニーついた棟や低い太陽、体に沁みる寒さを合わせると当時収容されていた方々の気持ちに近づくことができるのだろうか。
 通り道には、写真が掲示してある。
字が読めなくて残念だが、収容所部分に行くまでの予習になっている。
 この大きな煉瓦造りの建物は、ここを管理者たちの施設なのか・・・
 抜粋
 「この場所は、以下の方々に感謝を込めて未来の世代のために保存されています。
 抜粋 「永遠のメシギュ、ホロコーストで殺害された人々、神の御前に平安を、愛と慈悲の行為と共に。 見るも恐ろしい、恐ろしい光景。私たちはどのように見なければならないのか。人間である私たちには、過去を振り返り、そこから学んだことを学ぶ以外に選択肢はありません。ホロコーストで亡くなった人々は、私たちのコミュニティに多大な貢献をしました。
 施設の解説と模型が設置されている。
 航空写真。
当時の各施設の位置を把握することができる。
 ここは調べたが、何の施設かは分からなかった。
そして航空写真横の解説板の直訳です。
 「1941年、親衛隊国家主席ハインリト・ヒムラーの命令により、収容所内に約40平方キロメートルの面積を占める特別区域「インターエッセンゲビート」が設けられました。
 この地域に住んでいたポーランド人の大部分は、1940年と1941年にドイツ人によって強制移送され、家と土地を奪われました。多くの廃墟となった建物が取り壊され、アウシュヴィッツ強制収容所職員の将校や下士官の宿舎、その他の用途に充てられたものもありました。
 1940年から1944年にかけて、インターエッセンゲビート内には農場、畜産農場、工業農場、作業場が建設され、囚人たちは奴隷労働に従事させられました。
 収容所の農業観光、そして強制収容所そのものが、数千人の囚人の住処となっていました。彼らは当局の監督官による残酷な扱い、そして処刑の結果死亡しました。 1941年、SS全国指導者ヘタリヒ・ヒムラーの命令により、カマの周囲に約40kmの面積を持つ「インターエッセンゲベット」と呼ばれる行政区が設けられました。
 いよいよ有名な門に近づきます。
 ゆきたんくは上写真に写るのりたんを置いて施設に戻ります。解説板があったようなので撮影しに行ったのです。
 直訳です。
 「世界の沈黙がアウシュヴィッツにつながった。
世界の無関心がアウシュヴィッツにつながった。
世界の反ユダヤ主義がアウシュヴィッツにつながった。
二度とこのようなことが起こらないように。」
アウシュヴィッツ・ビルケナウ記念館は、ロナルド・S・ローダーに捧げられています。
アウシュヴィッツ・ビルケナウを未来の世代のために保存し、第二次世界大戦後のユダヤ人の生活を再建し、イスラエル国家を守り、反ユダヤ主義と闘うという彼の生涯にわたる功績を称えるために。
アウシュヴィッツ強制収容所の沈黙。二度と繰り返させてはならない。

 この建物の説明ではなく、「アウシュビッツ・ビルケナウ博物館」の意義が書かれていた。
 直訳です。 「アウシュヴィッツ・ビルケナウ。1944年後半、赤軍の攻勢が強まる中、SS当局はアウシュヴィッツ収容所の職員を写真で紹介し、拷問の恐怖を煽りました。1945年1月17日から21日まで、アウシュヴィッツ収容所から約5万人の収容者が避難しました。彼らの多くは、この悲劇的な「エヴァル、サティワイン・チェスタ・マルナン」という名の下で、シャティテ・ジティエ(死の行進)を強いられました。
 門の手前・
 収容所職員の施設だろうか。
 直訳です。
 「1940年、ドイツ軍が接収したポーランド兵舎跡地に、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命令により、アウシュヴィッツ強制収容所(後にアウシュヴィッツ第1収容所と改称)が建設されました。
この収容所には主に男性が収容され、当初は主にポーランド人でしたが、後にユダヤ人、そして他の国籍の囚人も収容されました。ソ連軍捕虜や女性囚人も一時的に収容されました。
司令官室やその他の親衛隊事務所もここに設置され、収容所施設のさらなる拡張はここから指示されました。
 収容所が見えてきた。
 緊張する。
 有名な門も見えてきた。
 遠くに見える監視所のような建物が不気味さを伝えてくる。
 なんだろう。
 排気口だろうか。
建物のこの位置にあるのは、、、
 まさかここから出入りしていたのか・・・
 門をくぐる囚人の様子が描かれている。

   
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