チビチリガチE align=

 この階段を降りるとチビチリガマに行けるのだ。樹木による日陰で暗い。ガマとは鍾乳洞のことで、年間を通じて気温の変化がなく、島民の憩いの場所であっ。
 それが戦時中は避難場所になったのである。
 臆病なゆきたんくがY氏を先に行かせている(笑)
もっともY氏も少し前にスズメバチに刺されて、蛇に咬まれるのと同様に恐怖に襲われていたのだ。
 これは何だろう。帰宅後に調べたら世代を結ぶ平和の像」ということがわかった。
 平和の像で琵琶を弾く法師様が、集団自決により苦しんでいる霊たちを慰めているように見える。像の下には沖縁鍾乳石の特色を生かした石の家があるよように見える。
 その1つの窓から中を撮ってみた。その中に苦しんでいる人たちがいた。
 集団自決時の死因は、親族による刃物で首を刺したり旨を刺したりしたものがほとんどだった。あの状況の中で他にとる方法がなかったと絶望した方が自決されたのだと思う。元日本兵がふとんに火を着けたことで炎と煙がガマに充満し,ガマの外に出て助かった方たちもいる。
 自決された方々の遺骨が眠るガマである。 中には千羽鶴が飾られていたが、特別な手続きでここに来た人たちが祀ったのだろう。
 平和の像全景。
 ここに来て、像の名前は知らなかったけれど意味を知ることができたのは大きな収穫であった。
 この半月前に、地元の少年たちが「肝試し」をした事件があった。大戦中の出来事が教育されていなかったからである。このことは日本全体に言えることである。某国の反日教育に時間を割くメディアはあるが、この日本の歴史教育はどうなのかをもう一度検証する必要があるだろう。
 チビチリガマの出来事は悲劇であった。親族の方たちにしてみれば,終生消えない悲しみであったろう。 戦闘に巻き込まれた民間人が自決をしたのは沖縄だけではないが,当時の日本国政府が軍人に対して「降伏の方法」などの国際的な常識を教えなかったことは教育の失敗だろう。また反米意識を植え付けるために盛んに報道された米兵による猟奇事件により、アメリカ軍に降伏しても助からないとの思いがこの悲劇を生んだのだと思う。
 ガマに向かって右手谷底ににある流れ。
チビ=尻、チリ=切れ
チビチリでシリキレとという意味かな。
谷底を流れる細い川がチビチリガマへ流れて行く。最後はどこへ流れていくのかわからない。それでついた名前だということだ。
 この流れがガマの中につながっているようだ。
 チビチリの川を撮影するめゆきたんくをY氏が撮ってくれた。
 チビチリ川の上上部分の樹木。戦時中はもっと生えていたのだとすると,敵からは見つかりにくかったのだろうと思える。
 平和の像を横から見た。
像の奥にあるのがチビチリ川の谷底である。
 
 チビチリ川の奥がみえるかな。
 チビチリガマ全景。
 平和の像右部をチビチリ谷と勝手に名づけた。
 チビチリガマ犠牲の碑とチビチリガマの歌。
 なぜか川に引き込まれるゆきたんく。
 ガマと反対側のチビチリ川。
 これはY氏撮影。
 これもY氏の撮影。
 ゆきたんくはなぜか川が気になってしょうが無かった。今となってはそその訳がよく分からないでいる。
 さて駐車場に戻ってきた、E
 チェリオの自動販売機が自分たちを現実に引き戻してくれた感じがする。

   

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