反射炉の周辺

 さあいよいよ反射炉の本物に会いに行く。
こ、これは。
 調べてみた。
 「田の神さぁ」と書いて「たのかんさあ」と呼ぶ五穀豊穣をもたらす農耕の神様の石像だという。
 で、何でここに。
 うん、展示室で見た時と同じ角度で撮影できた。
 いよいよ反射炉の階段を登る。
 いいねぇ。
 奥の木の柵で囲まれたところが、島津斉彬が最初に造らせた1号炉で、手前の芝が生えてない部分に2号炉が建っていた。
 木の柵に囲まれた、一段低い所にある1号炉跡。
炉の内部構造が、石組みにどのように配置されているかが分かるようになっている。
 屋外にしては、丁寧な展示である。
写真をクリックして大きいのを見ていただきたい。
 ここに「耐震性」や「通気性」の工夫が成されているという。写真中央の斜め上当たりに小さなプレートが見えているが、それが上写真だ。
 写真をクリックして大きいのを見ていただきたい。
 AIに訳してもらいました。
 「反射炉の建設と集成館事業の興りアヘン戦争における清(中国)のイギリスへの敗北は、島津斉彬に強い危機感を抱かせました。1851年、日本も欧米列強による植民地化の脅威にさらされていると認識した斉彬は、軍事力を強化し、近代産業を発展させることに着手しました。長い海岸線を持つ薩摩藩にとって、これは大砲と軍艦が必要であることを意味していました。鉄から鉄製大砲を鋳造するために設計された反射炉の建設は1852年に始まり、1856年にはここで大砲の鋳造に成功しました。この地域には、鍛冶工場やガラス工場など、他の多くの工場も建設されました。反射炉を中心としたこの一帯は「集成館」と名付けられました。
 写真をクリックして大きいのを見ていただきたい。
 AIに翻訳してもらいました。
 「反射炉の構造反射炉では、炉格子(火床)の上で燃料(石炭や木炭)を燃やし、発生した熱を天井で反射させて炉床(ろしょう)へと送り、銑鉄(せんてつ)を溶かします。日本では、こうした炉は主に大砲を鋳造するために使われました。この反射炉は、数万個もの耐火レンガと、建造物の巨大な重量を支える頑丈な石の基礎で築かれていました。炉床への湿気を防ぎ、高温を維持するために、石組みの内部には熱風が通り抜けるための空間が設けられていました。

 訳は右下欄に続く
 写真をクリックして大きいのを見ていただきたい。
 燃焼室の底に当たる部分だそうだ。

細い石の階段は、ここを作業員が上り下りして、底に溜まった灰を定期的に掃除するために使われていた。
 オリエンテーションセンターが見える。
 「反射炉跡」記念碑です。
 「反射炉跡」の記念碑の裏側にある石碑。反射炉が建てられた歴史的背景や経緯、意義が漢文で刻まれている。
 反射炉跡のすぐ横にある神社。

 ここにあって、山の神、水の髪を祀っている。
 ドロドロに溶けた鉄を扱うこと、機械を動かすための動力を裏山から流れる川の水力からいただいていたからと考えられている。

 では「たのかんさあ」は職人達の食事に関してか・・・

   
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