さて、いきなり第二見学広場である。
ドルフィン桟橋から上陸し、見学進める関係で第二見学広場へ移動した。
右写真であるが、この1枚にたくさんの遺構が写っている。 |
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正面に見えるのが「総合事務所手前側の建物」の壁の内側である。手前の壁と横壁は崩落してしまっている。
島内で煉瓦の遺構は色が映えるので残っていること自体嬉しい。 |
かつて軍艦島が現役の炭坑であった時には、必要のなかった灯台である。そう、夜間は部屋証明を点けて運行している軍艦のごときであった。
その右側にあるのが給水塔である。島の水ガメだ。 |
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シーマン商会さんのスタッフが、軍鹿島という名前の由来について説明を下さっている。
戦艦土佐に似ているとのことだ。 |
大きくし、レタッチをして見やすくした。 |
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ドルフィン桟橋ができる前、と言っても現存しているのは3代目である。
それまでは、船と船の間の縄梯子を使って渡っていたという。 |
さきほど書いた「総合事務所」の壁の内側である。床の基礎は見えている。
そしてこの壁の向こう側には補強が成されている。
もっともこの煉瓦建ての建物の後ろにも、5倍くらい大きい建物があって連結していたのだ。 |
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写真の掲載順番とは編集をしないゆきたんくである。
かつて炭坑として稼働していた時の夜の軍艦島である。
これでは灯台は必要ないだろう。
本当に軍艦のごときである。 |
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現役時代の総合事務所の写真である。
もっとも、この煉瓦遺構は元々第三竪坑捲(だいさんたてこうまきざ)という施設であった。
ここに地下抗に降りるケージを昇降させるためのワイヤやーを巻き取ったり、伸ばしたりするドラムがあった。ここの動力は蒸気だ。後に資材事務所に転用されたのである。 |
総合事務所の隣にある風呂があった場所だ。 |
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島の水がめ、給水塔である。 |
第二見学広場の手前通路の前にある施設である。
かつて、この階段を登り、炭坑へ降りていったのである。
そう、坑道への入り口だ。 |
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かつてのエレベターの姿である。 |
坑道の深さを表す図。 |
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こんな暗いところで、そう600m以上も深いところで8時間の労働をする。
坑内の温度は39℃近くあったという。 |
仕事後の鉱員。
顔が真っ黒である。
そして、この服のまま、第一の風呂に入り、第二の風呂、そして真水を沸かした第三の風呂に入って帰宅である。 |
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