鯨墓…1692年(元禄5年)に通捕鯨組の漁師たちが清月庵(現くじら資料館裏手)の境内に鯨の胎児を葬った墓。 | |
この当時は38だったかな。この歳になるまで岐阜県(母の実家)より南へ行ったことのない自分であった。山口といえば吉田松陰とか、プロレスの長州力くらいの知識しか持ち合わせていなかったのだ。この左の写真も「幸たんく」を立ち上げ、「旅たんく」のコンテンツができてから久しぶりに押入れから引っ張り出したものである。写真中央にいるのは長男のおーちゃんであるが今(2002年11月)では身長は175pになっている。山口に入り、青海島観光ホテルに宿泊したのだが、すぐ隣に島があるというので行ってみた。途中に「鯨墓」の表示があったので行ってみたのがこの写真である。「なんでこんな場所で鯨なのだろうか?」という疑問は持ったがすぐに忘れてしまっていた。旅たんくに山口を追加しようと思い、写真を選んでいた時に鯨墓について調べたくなった。 なんとも、江戸時代初期から明治時代までに青海島の通(かよい) では鯨漁が行われていたという。古式捕鯨であったことから生死をかけた戦いであったという。それだけに鯨に対して真摯な思いがあり、海を見ずに逝った子鯨を丁重に供養したという。 この写真でおーちゃんが立っているとなりにある御影石の解説は場所を移動したようである。ネットサーフィンをしている時にBARAさん(山口県の方)のサイトに踏み込み、そこの「このまちだいすき♪」に鯨墓が載っていたのだ。この写真ではゆきたんくの向こうに見える標柱と解説が同じ場所にある。BARAさんのサイトを覘いてみていただきたい。 |