二月になりました。 先月は新年のご挨拶と昨年の思い出を語らせていただきました。 今年は人生2度目の海外での年越しをしました。 よって1月4日までは海外にいましたので、今月のご挨拶はその時のことを語らせていだきます。 まず上写真ですが、長年の夢だった「ショパンの生家」を訪ねることができました。首都ワルシャワから西に55kmの所にあります。 現在は公園(フ・ジェラゾベイ・ボリ公園)として整備されていて、生家の家屋の奥に記念碑があります。その記念碑のそばで撮影しました。 |
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ジェラゾバ・ヴォラ![]() |
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トルン(聖母マリア被昇天教会)![]() |
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次に訪れたのはトルンです。ポーランドという国は周囲の国に翻弄された国で、その歴史をたどると、このスペースでは説明しきれないので、トルンについての興味について書きます。 ここでの著名人といえば、天文学者で天動説を唱えたコペルニクス。言語学者のサムエル・リンデはポーランドの国語辞典編纂者。現代音楽作曲家のカジミェシュ・セロツキ。卓越したピアニストであったが音源が残っていないのが残念です。そして生存されているアレクサンドル・ウホォルシュチャン。現在はアメリカ合衆国の天文学者として活動し、太陽系外惑星の発見者の1人とされているそうです。 ゆきたんくがトルンで一番に挙げたいのは、マキシミリアノ・コルベというカトリックの司祭です。「アウシュビッツの聖者」という呼称を聞いたことがある方がいらっしゃるかもしれません。アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所で脱走者が出たことによる無作為に餓死刑に選ばれた男性の身代わりになった方です。 写真は「聖母マリア飛昇天教会」内の柱の一つに掲げられていたコルベ神父の肖像画です。 |
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ポズナン![]() |
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ここでは人物ではなく、建物に会いたかった、 写真のポズナンン大聖堂です。 そしてここはポーランド発祥の地とされています。 バロック様式とゴシック様式といったその時代の技術で改葬と再建をされています。第二次世界大戦では旧市街の9割が破壊されたそうです。 創建当時の基礎の上に建てられているポズナン大聖堂はここの建物の象徴と思えます。 |
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ブロツアフ![]() |
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この街で興味があったのは、「ヴロツアフの小人」です。妖精とも言われている小人の数を、全部見るには、数泊しなければならない数になりました。オレンジ=オルタナティブにより、1980年代の共産主義に対してのデモのために造られたのがその始まりだそうです。そんなことは小指の先ほども知らないゆきたんくは町おこしの一つなんだと思っていました。風刺的に設置されたのをきっかけに、現在では250体以上の小人がいるそうです。いろいろなキャラクターがありますが、その一つ一つが設置されている建物に関連されいると聞いています。その中でもゆきたんくが気に入ったは、写真の小人。昔刑務所だった建物にこんな形で佇んでいます。それよりも、ハンマー投げをやっていたゆきたんくの心の琴線に触れるには格好の姿です。 | ||
シフィドニツァのルーテル教会![]() |
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ここはツアーのルートになっていたのですが、自分で見たいと思うものはありませんでした。しかし、行ってみればお気に入りはできます。写真のルーテル教会です。シフィドニツァの中心に位置する教会。平和教会とも呼ばれています。その内装の素晴らしさ、金属の釘を1本も使っていない木造建築。そして日の出前に教会入りし、陽光が教会内に注ぎ始めた時に聴けたパイプオルガンの生演奏。神々しいばかりの出来事でした。 | ||
ヴァドヴィツェの聖母マリア教会![]() |
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ここの出身者として著名な方は、カロル・ヴォイティワ氏です。後のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世です。この写真はヴァドヴィツェの聖母マリア教会の外に飾られていた写真の中にありました。 この洗礼盤に、クラクフ大司教として、そして枢機卿としてキスをしたことが記されていたようです。帰国後、写真の中の記事を翻訳して分かったことです。教皇として3度目のキスをされたようです。最高位の地位になっても、自分の根っこを大切にする方だったのだと思いました。 |
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オシフィエンチム![]() |
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そしてゆきたんくが生きているうちに訪れなくてはらないと考えていた場所がありました。それがオシフェンチムです。ドイツ語の方が通りが良いでしょう。アウシュビッツのことです。写真は収容所の門に掲げられている「ARBEIT
MACHT FREI(アルバイト・マトハ・フライ)」の有名な看板です。「働けば自由になる」という意味です。自分の知る限りではそれはありませんでした。ここで亡くなられた方々はなんのためにこの世に世を受けられたのでしょうか?強制収容所の名前しか知らなかったゆきたんくですが、ここに来て、「絶滅収容所」の名称も聞きました。 「働けば自由になる。」 では働けない人は・・・、 |
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ビルケナウ(アウシュビッツⅡ)![]() |
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その後、ユダヤ人絶滅センターと姿を変えたのです。ユダヤ人であるという理由だけで殺害された多くの方々。その数は100万人を越えました。労働に適さない(働けない)と判断されるとガス室で毒殺されたのです。老人・病人・妊婦・子供がその対象です。この悲しい出来事が起きたこの場所に立ち、思いを馳せました。 このアウシュビッツ・ビルケナウで撮影禁止になっている2つの場所があります。1つは、「婦女子から刈り取られた毛髪の置いてある部屋」、もう1つは「地下牢」です。この地下牢で前述のコルベ神父は亡くなられました。その部屋にはカトリックのミサで使用される蝋燭が置いてありました。それらを自分の目で見ることも課題でした。 二度とホロコーストのようなことが起こらないように願っています。 そして宿題ができました。このビルケナウの軌道敷を跨ぐ「死の門」と言われた門が、イベント改修のために見ることができなかったのです。それは生きているうちにもう一度この地に来なくてはいけないということです。 |
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ヴェリチカ岩塩抗![]() |
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次の都市はクラクフ。 世界遺産のヴェリチカ岩塩抗を見に行きました。 ここでの目玉は岩塩でできた(坑内のほとんどのものは岩塩でできています。)礼拝堂です。岩塩抗は13世紀以来稼働していましたが、洪水の危険性があり、現在は観光地となっています。中にある様々なモチーフは抗夫立ちが信仰のために岩塩を掘り上げたものだそうです。いやぁ、美しかったですよ。 |
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エロス・ベンダート…クラクフ(織物会館横)![]() |
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こちらもクラクフです。 クラクフの中心には織物会館があります。 残念ながら1月1日の訪問だったために、織物の会館の中の店はお休みでした。 その周囲には新年を祝う、お祭りのような催しがありましたので賑やかでした。 数多くの屋台、アトラクション・・・ ゆきたんくの一番の目玉は写真の銅像です。 首から上だけ、それも横倒しになっている銅像・・・ これはポーランドのガイドブックを見ていて、見つけたもの。 ぜひこれは見たいと思ってしまったゆきたんくでした。 ポーランドの著名なアーティスト、イゴール=ミトライが1999年に創作しました。 織物会館の周囲にはメインマーケット広場がありますが、その一角でしっかり存在感を持って寝ています。会えて嬉しい、触れて嬉しい。 ゆきたんくが触れている鼻の辺りはコロナ禍ではマスクをしていたので触れることのできなかった箇所でもあります。 |
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フレデリック・ショパン博物館![]() |
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さあ、ショパンは生家に行ったとは言っても、彼がそこに住んだのは数か月のことでした。ワルシャワ、ウィーン、パリ、マヨルカ島(スペイン)と移り住み、最後はパリで亡くなる39年の生涯でした。 この博物館には、彼の書いた楽譜、最後に使ったピアノ、彼にかかわった人々とのり解説、彼の旅の軌跡、彼の音楽を書くことのできるオーディオルームが整った綜合的な徳物館です。ツアーのため、音に浸ることはできませんでしたが、とても満足のいく施設でした。 |
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ショパンの心臓が安置されている聖十字架教会![]() |
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バリで亡くなったショパンでした。 祖国をこよなく愛しながらも、ロシアなど列強の支配下にあった祖国への帰国は叶わない状況下、せめて心臓だけは祖国に埋葬してほしいというのが、ショパンの生前からの願いでした。彼の姉は、決死の覚悟で“ショパンの心臓”をコニャック漬けにしてドレスの下に隠して国境を越えたとか。 第二次世界大戦で避難のために持ち出された以外は、この聖十字教会(大戦で大きく破壊され、その後再建された)で眠っているそうです。 |
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ワジェンキ公園![]() |
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ワルシャワ中心よりも少し東寄りにある広大な公園があります。 それがワジェンキ公園です。2年前にオーストリアのハイドンの生家を訪ねることができましたが、その理由は幼い頃にみた「原色学習図解百科」に載っていた写真を見たからでした。このゆきたんくと奥方の後ろにあるショパンの像も同百科事典にあり、同ページにはショパンの生家もありました。また次ページにはショパンの使っていたピアノの写真もありました。これは博物館で見ることができました。一つ一つ、思いが叶っていくことって素晴らしいことです。 今回のポーランドへの旅の提案は奥方でした。感謝ですね。 |
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