近藤勇陣屋跡

 ここがかの新撰組局長、近藤勇と土方歳三が別れをつげた場所だ。新撰組とは、幕府が集めた浪士隊に参加して、将軍の列外警衛として上洛した時に京都に残り、京都守護職・会津藩主松平容保の支配下に入った時に命名されたものである。洛中、洛周(京都周辺)の治安維持につとめ、のちに頭角をあらわして新撰組の局長になり、土方歳三が副長となった有名な組織である。
 岩倉具視が、徳川慶喜を賊臣として「殄戮(殺し尽くせ)という密勅を薩摩藩主島津父子と長州藩主毛利父子に対して下し、薩長討幕派はこの勅によって、武力による討幕の大義名分を獲得し、新撰組の旗色が悪くなってきたのである。「鳥羽・伏見の戦い」(戊辰戦争のはじまり)で新撰組は多くの隊士を失い江戸に戻ることになった。その後甲府へ向かう折、官軍と戦い敗れて江戸に戻り、下総流山で再起を図ったが流山を戦火に巻き込めないと考えて自首したのである。
 『官軍と戦うは、慶喜公の志にそむき、且つこの流山を兵火の災いにあわせ諸人を苦しめざるを得ない。吾一人身を殺して諸人の難を救うことができれば死んでも恨みはない』


その後官軍に捕らわれ、4月25日には板橋庚申塚(現在の東京都板橋区)で斬首処刑された。35歳の若さだった。
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