千葉市のホームページより

江戸時代に池周辺は、作草部村と寒川村との境界になっていました。

ある時、池の所有をめぐって争いが起きましたが、役人が確認に来る前日、寒川村の住人で、綿打の仕事をしていた太郎兵衛が村内の弁天の石碑を移しておいたところ、役人がその石碑を見て、池を寒川村のものとしたということです。

以来、太郎兵衛の気転を褒め称えて、「綿打池」と名づけられたと伝えられています。

 池の東側には、鉄道第一連隊の遺構が多く残っている。
右上写真はウィンチ台のようだ。 

   
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